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島岡達三作品コレクション

解説 中澤コレクション (益子陶芸美術館 「島岡達三展」目録より)

島岡達三さんと中澤三知彦さんの友情と厚情


道家 達將(どうけ たつまさ 東京工業大学博物館 特命教授)
 

 2013年4月21日から同年7月21日まで、栃木県益子町の益子陶芸美術館で、「島岡達三展」が開催される。これは、島岡達三さんが益子町から「益子町名誉町民章」を与えられるのを記念しての展示会であり、改めて島岡さんの陶の味わい深さを感じとって頂こうというものである。
 今回展示されるのは、東京工業大学博物館所蔵の「中澤コレクション」と呼ばれる島岡達三さんの110点の作品群から選ばれた約60点である。

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 「中澤コレクション」の「中澤」は、中澤三知彦さんのことである。中澤三知彦さんは、東京工業大学の窯業学科で島岡達三さんと共に学んだ同級生であり、生涯の親友であった人である。中澤さんは、学生時代には、東京都港区愛宕にあった島岡さんの生家をしばしば訪れて語り合い、戦後は、1954(昭和29)年に島岡達三さんが益子で初窯を焚いたときに招かれて参加し、その後も幾度も益子に通い、さらには東京や大阪で開かれた島岡さんの展示会にも毎度のように出向いて、自分の気に入った島岡作品を購入し続け、座右に置いて鑑賞し、また、まさに健康な「用の美」を味わってこられた。

 初窯以来42年、島岡達三さんはたゆまぬ努力と工夫が実り、1996(平成8)年5月、「民芸陶器(縄文象嵌)」の業績により、国の「重要無形文化財保持者(人間国宝)」に認定された。

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 このときの中澤さんの喜びようは大変なものであった。実は、中澤さんは暫く前から島岡さんが人間国宝となるであろうことを予言してはばからなかった。東京工業大学として祝賀会が開かれ、木村孟学長がお祝いの言葉を述べられたとき、卒業生を代表して祝言を述べたのは、いつも瀟洒な着物姿がよく似合う中澤さんであった。このときすでに意中には、東工大への島岡作品の寄贈の思いがあったと思われる。当時、東工大博物館の準備を進めていた私に、中澤さんは自分が所有する島岡作品の整理を進めていることを話された。そこには明らかに島岡さんの「人間国宝」認定に対しての中澤さんの心からのお祝いの気持と、同時に、島岡さんの「ものづくり」の仕事における作陶の歴史的価値がいかに高いかを、東工大の内外の皆さんに実物を見て知って欲しいという中澤さんの願いがあったと私は思う。折々の話からすると、最初期の習作を含めれば、当時中澤さんが所有しておいでの島岡作品は、恐らく150点を超えていたと思われる。

 この祝賀会の1年半後、1997年10月、東工大学長は内藤喜之学長に交替した。
 その後暫くの後、中澤さんが来られて、「内藤学長に会って、島岡さんの陶芸作品100点ほどの寄贈を申し入れ、了解を得て来た」と言われた。そしてまた暫く後の、2000(平成12)年の8月31日、寄贈予定の陶芸作品110点の名前を筆で認めた目録1冊と一揃いの写真を持参され、「この目録の全作品を現在制作中の木箱に入れて11月にはお渡ししたい」とおっしゃった。

 問題は、東工大での管理方法であった。安全性を確保するにはどこにどのように置くのが良いのか、特に問題になったのは地震・盗難等への対策であった。内藤学長の熱意もあり、国立東京文化財研究所や、各地の陶芸美術館、そして学内の施設部などの協力も得て、東工大では地震に強いと判断される本館の一室を収蔵庫として内装を改め、用意することがきまった。独立した展示館を作り常設展示する提案もあったが、これはできなかった。

 中澤さんのこの島岡作品多数寄贈の話に対する反応はすぐにあらわれた。何より驚いたのは、島岡さんから、2000年代のはじめのことであったと思うが、新たなご寄贈の意図が示されたことである。「私も何か寄贈しなくっちゃー」とおっしゃったことを今も覚えているが、なんと高さ38㎝の河井寛次郎作「扁壺草花図」と、直径50㎝の濱田庄司作「柿釉鐵絵青差大鉢」、そして自作の大作、高さ46㎝の「灰被縄文象嵌壺」を東京工業大学に寄贈したいと申し出てこられたのである。内藤学長も驚き、大変喜んだ。2000(平成12)年6月20日に島岡家に頂きに上がった(写真②)。この河井、濱田作品については、後になって、販売店からかなり高額で島岡さんが購入されてのことと聞いて、大学としては大変恐縮した次第である。と言いつつ、東工大としては、たいへん有難かったのは、実は、卒業生である河井作品も濱田作品も、東工大には一つもなく、前者は小野田眞穂樹名誉教授から、後者は島岡さんからお借りしていたものが各一点ずつ(前者は、辰砂釉扁壺、後者は、赤絵皿)あったのみだったからである。島岡さんは、このことを知っておられたがゆえに、今回、お二人の先輩の代表的作品を探し、買い入れてご寄贈下さったのである。まことに頭の下がるご寄贈であった。
 さらに言えば、島岡さんには、既に事あるごとに自作の大作を頂いていた。早い時期には、高さ25.3㎝の地釉象嵌縄文壺を、1987年頃には1986年作の直径56.4、高さ12.9㎝の塩釉象嵌縄文大皿を、また、大きな壺である高さ46㎝、径17㎝の地釉象嵌縄文壺、さらには、それ以前からお借りしていた島岡さんご愛用の濱田庄司作赤絵皿も、と言った甘え方であった。
 それがさらに、この2000年~2001年に東工大博物館の収蔵陶芸品が一挙に増えていったのである。単に増えただけでなく、ワグネル以来の東工大における、日本の代表的陶芸の発展についての基本的作品が、次々と集まり始めたのである。それも有難いことにご寄贈によって。その後、板谷波山、中田清次、濱田庄司、加藤釥の作品も増加し、さらに田山精一、村田浩、島岡桂ら(敬称略)近年活躍中の作家たちの作品も加わっていった。なお2001年には、島岡さんから「東京工業大学創立百二十周年記念」と書き入れた大(直径46㎝)・中(直径41㎝)2枚の皿も、頂いた。内藤学長のお願いを容れて、「お祝いに」と申されて持参して下さったものである。

写真①001215「島岡達三先生作陶品展」右より島岡達三先生,中澤三知彦氏,内藤喜之学長(当時).jpg写真①=右から島岡達三さん、中澤三知彦さん、内藤喜之東京工業大学長。 2000年12月15日東工大展示会場にて

写真②.jpg写真②

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 さて、先ほどご内示があった中澤コレクションの受領の件であるが、2000(平成12)年11月6日朝、中澤家に110点の島岡作品を頂きに上がった。奥座敷に通されてびっくり、床の間の前の畳の上に、作品を納めて美しい真田紐できれいに締めた大小の木箱が、山と積み重ねられ、手前中央に大きな「地釉縄文象嵌壺」がでんと座っている。近づいて見るどの箱にも筆で番号を書いた紙が貼り付けてあった(写真③)。寄贈の話があってからこれまで長い時間がかかったことがよくわかった。それ以上に、この作品の一点一点に中澤さんの数々の思いがこめられていることを改めて思い知らされた。当日の私の日記を読み返したところ、なんと、「昼は中澤さんにご馳走になり夕方東工大に無事帰着」とあった。「日本通運」の車と共にである。これまた恐縮の限りであった。
 写真④は110点の全部に、2000年6月20日に島岡達三さんから頂いてきた大作の「灰被縄文象嵌壺」を加えて、新設の収蔵庫の床いっぱいに並べて、撮影したものである(撮影者は佐伯淳)。

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 東工大としては、緊急に展示会を開いてこれら全作品を公開することになった。
2000(平成12)年12月には「中澤三知彦氏寄贈島岡達三作陶品展」を開いて、寄贈110点の半分を1日限定で公開し、2001(平成13)年6月に改めて「島岡達三陶芸作品特別展」を開き、中澤さん及び島岡さんからの寄贈陶芸作品のすべてと百年記念館がすでに所蔵・借用していたワグネル、板谷波山、河井寛次郎ら、東工大の教員・卒業生であった作家たちの作品も併せて公開展示することにした。島岡さんには公開講演「私の作陶50年」もお願いした。
 この際、常設展示室では、今日のセラミックスの科学・技術や工業デザイン、染色工芸、またガラス工芸の発展への道を開いた東工大の教師や卒業生たちの仕事を示す平野耕輔の「平野コレクション」、芹沢銈介の型絵染、各務鑛三のクリスタルガラス工芸作品の展示等も併せて行った。
 東工大の卒業生で、2000年12月にノーベル賞を受賞された白川さんご夫妻も来て下さり、大変な盛会であった。

 ところで中澤コレクション、すなわち「島岡達三陶芸作品特別展」の配布目録に掲載すべく中澤さんに寄贈者としての感想の寄稿をお願いしたところ、中澤さんは次のように書いて下さった。

「昭和29年3月学友島岡達三君の初窯に招かれて以来、時には窯出しに、或いは百貨店などの個展で求めた作品がいつとはなしに可成りたまり、昨秋大学へ寄付をさせて頂きました。島岡君の陶芸とふれ合ったことから、書物、見学、若干の作陶を通して陶芸の美、歴史を学ぶようになり、自己なりに楽しんできました。私の人生の経糸(たていと)を技術者・経営者とするならば、緯糸(よこいと)の一つは陶芸の中に遊ぶことだったと思っております。                                        平成13年5月23日」

 この時の中澤さんは、明るかった。中澤さんは、ここには書いておられないが、私には次のようなことも言っておいでだった。
「陶芸を成功させるには、自ら努力して、見事な作品を作り上げていく人と、これを助ける人が必要である。島岡君にはすばらしい才能があり努力家でもある。私は、島岡君を助ける人間である。それにしても私は、島岡君にはずいぶん楽しい思いをさせてもらった。」

 当時、島岡さんは81歳、中澤さんは84歳、まだまだお元気であった。島岡さんは、その後7年間、ますます意欲的に新作陶制作に励まれ、中澤さんも2003(平成15)年には、「民芸の源泉の人」とされる山梨県高根町出身の浅川伯教・巧の兄弟について、同町が平成10年に創設した資料館に東工大の後輩ら30名程の人びとを案内し、解説し、一同に感謝されたことを『たくみ』第4号(2003(平成15)年4月15日)に(東京民藝協会会員として)書かれたり、東京高等工業学校の弟分である大阪高等工業学校窯業科を卒業した「先斐の陶芸家小森忍の業績を忘れてはいけない。小森抜きで、河井、濱田の業績を語ることはできない」等、多くの金言を語られるなど、活発であった。

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 しかし、島岡達三さんは、2007(平成19)年12月、銀座松屋での第44回展示会開催中に突然お倒れになり、展示最終日2日後の12月11日に亡くなられた。この悲報は多くの人を驚かせ悲しませたが、中澤さんには特に大きな衝撃を与えた。中澤さんは暫く前から病床にあられたのであるが、実は、島岡さんがその病床の中澤さんを、ご自身が逝かれる約3ヶ月前、2007年10月のはじめに、忙しいなかを横浜のご自宅までお見舞いに行っておられたのだ。中澤さんは島岡さんへの弔辞の中で、次のように書いておられる。

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 島岡達三君をおもう
 はじめて益子のまちに足を入れたのは昭和29年の3月のはじめである。島岡達三君からの招きである。島岡と私は大学での同学科の同級生であった。…(中略)…戦後…君は戦前からの予定通り益子の浜田庄司先生の弟子となり将来を期してその道を進むこととなり、その初窯に招かれたのである。はじめて益子に入った折は交通も不便であり、焼き物をしている所謂陶芸家は十名にも満たなかったのではなかろうか。初窯にて、その成功を祝ったのではあるが、今振り返ると昨日の様な気すらする。

 君のはじめての作品は浜田先生の作品のうつしと言う程に似たもので、これでは将来は期待できないと思い、そのむね私の考えを伝えていたが、しばらくして縄文を装飾のもととして民芸調の陶が生まれて来たのである。縄文そのものは古くから陶の文様として伝わっていたが、これを取り入れ陶の文様の本筋としたのは、縄文土器の編年で知られる東大講師山内清男と島岡君の父親組紐師の影響である。君の作品が縄文を文様の中心とし、これをもとに島岡陶が生まれたと思っている。

 昭和40年代の後半から、将来は「人間国宝」にもなるのではないかと思って、東京の百貨店、関西の百貨店などでの出品作品を少しずつ買い求めて来ていた。

 私はよく口にしていた。島岡は今に「人間国宝」になるよ! 周囲の連中は笑っていたが、平成7年(*記述はママ、正しくは平成8年)に国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。私は島岡の作品を140点ほど所持していたが、選定して110点を私の出身校(島岡君の出身校でもある)に寄贈して、島岡君への友人としての祝いとしたのである。私の島岡君との交わりは陶を通しての交わりが中心であったが、昨年10月はじめ、私の病の見舞いに私宅まで来ていただいたのが最後の友人としての会合であった。その折は、君は年老いて88歳、私は、91歳であり、最後の面会であった。まさか島岡君、君が先に死の世界に先立つとは思わなかった。惜しい人をなくしたとつくづく思う。

 君はテニスとマージャンが好きだった。私はマージャンに付き合うことはなかったがテニスは数回付き合ったと記憶する。夜の飲食での付き合いは、同窓会などであった程度で余りなかった。これらの付き合いは50歳位までで、飲み歩くなどしない付き合いであった。

 君はまた愛妻をしばらく前になくしている。本当に君の仕事の影の協力者であったと思う。大変物静かなよい人で、今でも私は君を尋ねる度に思い出していた。

 君とは東工大のクラスメートであるが、はじめて君の当時の家を訪ねたのは昨日のようにも思える。愛宕山の南すそで今は街の姿も大分変わっているが、寺の多い地区で懐かしい。この地で君の葬儀が行われ、私が身体不自由のため出席できなかったことはまことに残念なことであった。(平成20年1月)

   中澤三知彦(昭和16年12月 窯業学科卒)
【東京工業大学同窓会誌Kuramae Journal 1006(2008年spring)P.75より】

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 そして、その2年後、2010(平成22)年1月10日に中澤さんは島岡達三さんを追われるかのように静かに逝かれた。

 中澤さんは、父中澤偉吉(画号は靈泉)(長野県生まれで京都高等工芸学校(現国立京都工芸繊維大学)図案科を卒業して、技術者であり絵画・俳句・短歌に長じておられた)と、母榮(画号は緑楊および惠以)(滋賀県生まれで旧姓大橋、大津女学校を経て女子美術学校(現私立女子美術大学)を卒業した女流日本画家)の長男として、1916(大正5)年10月1日に東京市下谷区指谷町で生まれ、立教中学・東京高等工芸学校(現千葉大学)を経て東京工業大学窯業学科を1941(昭和16)年12月に卒業、品川白煉瓦株式会社に入社、その後日本鋼管等に技術研究者として勤め、耐火物の研究で成果を挙げ、さらに母の弟が始めた大橋化学工業株式会社の代表取締役社長をはじめ、幾つかの会社の経営にたずさわり、また絵画や陶芸などの制作を行うと共に、その歴史的研究を行い、東京民藝協会の会員としても活躍するという、多才で行動的な人であった。

 そして、ここに展示されている中澤コレクションの島岡作品のひとつひとつは、まさに、島岡さんが最も大切にしていた「日常的に使う」健康でたくましく、そして温かくやさしい作品であり、見る人びとを励まし、元気づけてくれるものと思う。
 この展示会場にいると、ふっと、島岡さん、中澤さんが現れて、語りかけて下さるように思えてならない。

 島岡達三さんと中澤三知彦さんの厚い友情とともに、お二人が東京工業大学にお寄せ下さった厚情の深さは、いくら深謝しても深謝しきれないものがあり、改めて、心から御礼申し上げご冥福を祈るものである。


2013年3月

写真③.jpg写真③

写真④中澤三知彦さんから寄贈された島岡達三さんの陶芸作品(最大の灰被の壺は島岡さんからの寄贈).jpg写真④